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個人塾の存在意義 カウンターカルチャー

たまには教育というか塾というか個人塾という事業体が社会においてどんな役割を担うべきなのかということを理論的に考えてみようかなと思います。抽象的な話が嫌いな方はごめんなさい。

 

まず、塾の社会的役割を考えるとっかかりにしたい理論はプルデューの「社会における階級的格差の構造は教育が再生産している」というものです。その考えを要約すれば下記のようになります。

 


プルデューの問題意識を単純化すれば「なぜ平等な教育機会が保証されているのにも関わらず、大学以上の教育機関への進学者において、中産階級の子どもたちと労働者階級の子どもたちとの間に明らかな階級間格差が生じるのだろうか」というものです。

 

日本では苅谷剛彦氏の「学力と階層」でも同じような問題意識を持たれていますが、いずれも、その原因を「文化資本の格差」であると指摘しています。「文化資本」とは、文化レベルのことだと考えて下さい。簡単に言えば、両親の語彙力の高さや、家にある書籍の量、藝術との繋がり、躾に対する態度などと思って下さい。これらの文化資本の中でも、プルデューは言語資本、苅谷氏は躾資本(=たったいま勝手に造語しました)に注目しています。

 

では文化資本とは何でしょうか。プルデューが注目する言語資本と苅谷氏が注目する躾資本について説明します。言語資本とは、その能力が高ければ高いほど、言語は抽象的・形式主義的・レトリック的表現を多用するわけですが、言語資本が低いと言語は個別特殊的・具体直接的な表現を多用するとのことです。躾資本が高いと、子どもへの躾が行き届きますから生活体系は規則正しくなりますが、低ければ怠惰な生活体系となります。

 

そして、労働者階級の子どもは、この言語資本や躾資本が低い場合が多いのです。(ちなみに、プルデューはフランス人なので「労働者階級」と表現していますが、現代の日本にプルデューが言う意味での「労働者階級」を当てはめて考えるならば、それは、親が高卒であったり、シングルマザーであったり、要は所得の低い、もしくは親の学歴レベルの低い家庭のことだと考えれば結構です。)

 

ところが、学校文化では、「基本的に生徒達は言語資本が高く、躾資本が高いこと」を前提としたカリキュラムが組まれています。あるいは、「生徒達は言語資本が高く、躾資本が高くあるべき」という理想を持っています。

 

すると、このような理想とプログラムを内包する教育システムにおいて労働者階級出身の子ども達は、そういった資本を保有していないが故に、教育システムに戸惑いを覚え、中産階級の子どもたちと比べ理解力において差が出るのだと、プルデューも苅谷氏も指摘しています。

 

外見的には中立的で民主的な教育システムですが、実際は、初めから中産階級優位の環境での選別が起こり、しかも、それが社会的に正当化されるとも指摘しています。もちろん、言語資本や躾資本を身につけるのは後天的なことでありますが、それらの必要性を明確に認識している特定の階級内で繰り返し再生産され、その結果として、階級構造が固定化していくと指摘しています。

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この理論を正しいものとするならば、塾は基本的に階級構造の再生産の方棒を担いでいます。なぜなら、塾とは、学校よりも言語資本や躾資本の有無によって生徒の選別を行うからです。

 

ところで、この理論展開には、ある価値観が含まれているように思います。それは「階級格差は悪いことだ」ということです。言いかえると、教育(=学校や塾)が「階級構造の再生産に寄与しているのであるならば、教育の在り方を変えなければならない」という問題意識が見え隠れするのです。もちろん、苅谷氏もプルデュー氏も、そういったことは言っていません。しかし、この社会的事実に対する洞察を手にした場合、私たちは逆に「階級構造は悪いものだ」と考えてしまうことでしょう。

 

しかし、階級構造が本当に悪いものなのでしょうか。いや、確かに階級構造は悪いには悪いのだと一般的には考えられます。ただ、階級構造を悪いと考える背景には、「中産階級は労働者階級よりも幸せだ」とする思想がなければ成立しない考えのはずです。ということは、苅谷氏やプルデュー氏にも、そもそも階級構造的価値観、しかもそれは中産階級の方が幸せだよね、といった価値観があるはずです。

 

そこで、次の理論的視座が登場します。それはウィリスの理論です。要約します。


ウィリスの問題意識は「労働者階級に育った若者が自分の親と同じ労働者階級の職業に就くことが極めて多い点に着目し、なぜそのような事態に至るのか」というものです。

プルデューや苅谷氏は、労働者階級の子どもたちは文化資本や躾資本が少ないが故に、学業で好成績を収められなかったことを理由に、自分は高給を得たり高い地位についたりすることはないと自ら能力を限定することによって、親と同等の職に就くと考えられてきました。また、学校は知力による選別を行うことで、知力の面で限界を認めることを教え込み、労働者階級の若者は、劣等性を受け入れることで、労働者階級の職業に就くとを指摘されてきました。

しかし、ウィリスはこの指摘を批判します。たとえ、学業に対して劣等感を持っていたとしても、自らが不成功者であると生涯思わずに、いわゆる下積みの仕事をしている多くの人々がいる。そこには学業以外の何かがあると彼は指摘しました。

彼はそこに反学校文化と労働者階級独自の文化を指摘し、若者はそれら文化によって自らの価値観を得、またそれを担っていると指摘しました。そして、肉体労働への男らしさや、優等生の多くが就くホワイトカラーに対して批判的な価値観を持つことになると指摘します。確かに学業不振は1つの原因ですが、労働者階級の人々によって形成された文化の中で育った若者は、望んで労働者階級の職業に就いている者も多いと指摘しました。

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このようにウィリスの理論では階級構造が再生産さること自体に問題意識を持っているわけではありません。むしろ、労働者階級には労働者階級としてのカウンターカルチャーのようなものが存在し、そのカルチャーの中で育つ人にとっては、中産階級になることを望んでもいないし、むしろ批判的であるとのことです。

 

私たちは、このウィリスの理論に非常な共感を持ちます。というのも、個人塾には、いわゆる労働者階級的な子ども達が集まるからです。そして、彼らは彼らなりに、きっと強く生きていくのです。このときに、私たちは個人塾として、どんな態度を取らなければならないのでしょうか。

 

これを考えるために、まず大手塾について考えてみます。おそらく、大手塾は中産階級への憧れを磁力にして顧客を集めるシステムです。だからこそ、大手塾は中産階級っぽさを演出します。そして、大手塾に来る生徒達には、中産階級に入ることが幸せなんだということを色々な角度から知らしめて、かつ、「受験を上手く乗り切ることが、中産階級になるための一歩なんだ」と教え込むことでしょう。

 

では、個人塾の意義とは、なんでしょうか。もちろん、大手塾からマネをしなければならないことはたくさんあります。なんだかんだ商売ですから。しかし、マインドは、カウンターカルチャーじゃなきゃいけないような気がします。そうであってこそ、個人塾は個人塾としての役割を果たすわけです。つまり、労働者階級の子ども達に、中産階級に入り込むための勉強だけを教えるのはなく、むしろ反骨精神を育て、人間として真っ当であることの大切さを伝える。肉体労働でいいじゃないかと。つまらぬルーチンワークでもいいじゃないかと。人としての生き様は、ブルーかホワイトかなんかで決まるもんじゃねぇと。

 

逆説的なのは、いずれそんなカウンターカルチャーも、いつかメジャーに飲みこまれるということです。これは世の道理です。Jazzをはじめ、数多くの黒人音楽がいつしかメジャーへと昇格し、いつしか当時の魂は失われてしまうのです。

 

しかし、それでもいいのではないかと思います。今でも1960年代のJazzの情熱や反骨精神に適うJazzはありません。ただ、1960年代に確かに存在したその反骨精神に、人々は違った形で影響を受けるものです。

 

個人塾としての意義。それはカウンターカルチャーにあると言いたいです。私たちは、単なる商売ではなく、文化を担っていると考えてみるのもよろしいのではないでしょうか。

 

 

 

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