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埼玉私塾組合 教材教具展に出展いたしました!

本日、埼玉私塾組合様主催の教材教具展に参加させていただきました。

やはり展示会に参加すると、とても楽しいです。色んな先生に出会えて色んな刺激をいただけるからです。

特に刺激を受けたのが、発達障害をお持ちの子供に対してご専門の知識スキルをお持ちの先生に出会ったことです。

これも以前知り合った先生から教えてもらったことですが、大体学校のクラスに2割くらい発達障害の子供がいるという事実です。そういう子たちは、集団指導の中で、何度いっても分からない子、あるいはちょっと変わった子として片付けられてきました。
私自身も塾の講師を始めたばかりの頃、正直「えっ?」と思うような子供に結構な確率で出会い驚いたものです。

極端に字が汚い、字を大きくしかかけない。でも、異常に計算スピードはある。とか。

数学的思考はあるのに、英語のアルファベットや単語を覚えられない、などなど。
私は専門家ではないのでなんとも言えませんが、おそらく、そういう子たちは、何らかの発達障害を抱えているのかなぁと思うわけです。

で、そうい子たちを発達障害とラベリングすることは問題だと思いつつ、発達障害の研究の中で蓄積されてきた特性別の対処方法なんかは積極的に参照し活用すべきだと思うんです。特に、私たちのような補習塾では。

それに、これって社会的にかなり意義あることではないかなぁとも思うのです。おそらく、教育現場に立ってみないと分からない、見えざる格差って奴を私塾が是正する。これぞ私塾でしょ!と思います。

教育ICTの観点にたてば、アクティブラーニングなんかも、本来は、こういう文脈で活用されるべきだと思うのですが、やはり話題は受験への対応ばかりで。もちろん受験も大事ですし、人を成長させる絶好の機会です。でも、今一度立ち止まって、人の個性について真剣に考えたいものです。

そんなことを考えました。

代ゼミの敗因分析

代々木ゼミナールが大幅に業務縮小したようで。一部では、不動産業に業務転換するための布石であって、数十年前から、それを見据えていたのだなんて言われてますが、個人的な見解としては棚から牡丹餅的な感じだと思います。

 

予備校ビジネスの重要な指標は、講師一人当たりの生徒数です。ですから、人気講師が何百人もの生徒達を前に講義すればするほど、利益が増えていきます。こういったビジネスモデルを前提すれば、人口の多い駅前一等地に大型店を構えるという発想は至極当たり前の発想であって、不動産業を見据えるというより、あたえられたビジネスモデルを最適化しようとする中で導かれる答えであったはずです。

 

しかし、このビジネスモデルにひとつの革新が起こります。それは衛星授業です。衛星授業は、人気講師の授業を動画撮影してしまえば、物理的なキャパに制限されることなく全国の生徒達からお金を徴収できるようになります。この革新に早くから目を付けてきたのが東進ハイスクールです。東進ハイスクールは、その他の予備校のように人口の多い駅前一等地に大型店を構えていません。むしろ、大手予備校に通いにくい地方の生徒を狙って、小さな駅前の雑居ビルのようなところに店を構えました。そして、そういった小規模な店舗を多数展開して面で貼っていきます。しかも、講師が現場に赴く必要性はありません。こうして、人講師一人当たりの生徒数を伸ばしていきます。しかも、大型店と比べて賃貸料は大幅に安いはずですから、利益率が高くなることは明らかです。

 

代ゼミは、既に駅前一等地に大型店を保有しています。これは、代ゼミにとっての一番多きな武器でしたが、それが仇になりました。この駅前一等地大型店という経営資源を有効活用しようとするならば、東進のように小型店舗を多数展開することは非合理的です。なぜなら、それによって、大型店の集客がままならなくなる可能性があるからです。

 

もちろん代ゼミも衛星授業をやっていましたが、それは中途半端なものでした。

 

こんなことで、代ゼミと東進がとってきたビジネスモデルの違いによって、既に勝負は決まっていたのだというのが僕の見立てです。しかし、衛星配信という技術が一般普及する以前において、もっとも合理的な経営判断は、駅前一等地大型店なのですから、そこを責めることはできないのです。

 

今、東進のビジネスモデルは、インターネットによって覆される危機に瀕しています。東進が代ゼミが追い込むまでにかかった時間は、約10年程度。今後10年で、東進がネット技術活用した進学塾に駆逐される日がくるだろうと考えます。

 

もちろん、駿台や河合塾、代ゼミは生き残っていきます。ただし、それは、そのニッチで生き残っていくしかないのだと思います。

 

 

勉強出来ない子が頑張る時

私たちの塾には、学年順位でビリの方の生徒が数人います。

 

彼・彼女らは、場合によって、学習障害を持っているのではないかと疑ってしまうくらいにモノ覚えが悪かったりします。

 

そんな子どもであっても、その子どもの存在を認め、叱咤激励すれば彼らなりの頑張りを見せるものです。

 

学年ビリの生徒の親は「どうして、うちの子どもはこうなってしまったのだろう」と悩みつづけてきました。

 

(ある種の諦めもありつつ、だからといって見捨てることはできない。大手塾では、私の子どものような生徒の面倒を見てくれることはできない。それだったら個人塾に頼もう)こんな心理状況で個人塾に駆け込んできます。

 

私たちは、そこで、素行がひどくない限り、どんなに成績が悪くても、その生徒を受け入れます。

 

話は戻りますが、そんな子どもが塾に来てから自主的に勉強するようになったら、これほど嬉しいことはありません。それは私たちも親も含めてです。

 

こういった一つ一つの積み重ねが大事なんだと思います。

子どもとの向き合い方

「どんなに努力しても成果が出ないことは良くあることです。成績が悪いのは努力をしていないからだという正論に押しつぶされる子どもが多い。」などと言う教育評論家や児童心理学者がよくいます。

 

うん、そうだよなぁと思う反面、ん、何か違うとも思うわけです。例えば、成績の悪い子や素行の悪い子に対して「成績が悪いのは努力が足りないからじゃないんだよ」と言って「どんなに勉強しても出来ないことは良くあること。しょうがないよ!!」と言い切ったら彼らは、ますます勉強しなくなる。というか、ますます怠惰になる。

 

勉強が出来る子と出来ない子がいるのは事実です。それでも、その人なりの頑張りを引き出さなければならない。この時に、我々に求められる最も効果的な言説もしくは行動とはなんなんでしょう。

 

少なくも、それは、努力必要論でも努力不要論でもなく、放任主義か管理主義でもなく、ただただ子どもと真剣に向き合うことでしかない。それは、こちらの願望を子どもに投影するものであってはならないということだけは確実に言えることだと思います。

子どもに理解を示す必要はない ぬり壁になれ

ここ数週間塾を休み、宿題もやってこない生徒がいます。その生徒を呼び出し「何を考えている?」と問いかけると、突如、俳優になったように「もう、勉強が嫌なんです」「教科書を観ているだけで吐き気がする」などと話し始めて、ついでに涙も流す。塾を休んでもしょうがいないでしょ、と言わんばかりの態度です。

 

そうか、そうか、と聞いていると、そのうち「でも、最近は一人でも勉強しているんです」と言い始めて、思わず(お前、さっき教科書を観ただけで吐き気すると言ってたじゃないか)と思いながらも、そうか、そうかと聞く。

 

一通り、生徒の話を聞いた後に、私たちは静かに語ります。「おめぇ、本当に最悪だな。言い訳ばっかほざきやがって。悲劇のヒーローでもなったつもりかい。お前が塾を休んでいる間、お前以外はふつうに塾に来ているんだよ。お前と同じように部活をやって、お前と同じように、みんな勉強が嫌いだけど頑張ってんだよ。」

 

すると、「なんで勉強するんですか?勉強する意味ってなんですか?意味がないことをやる気が起こりません」と言う。

 

そこで私たちは言います。「勉強する意味だと?とにかく、おめぇは約束をやぶった。他の生徒は塾に来て、宿題をやってきているのに、おめぇだけはやらない。これは、勉強に意味があるないの前に人間として最低の行為ってことだ。言っとくけど、社会に出てからも、それをやる意味があるかないかなんて分からないことばかりをやらされる。そもそも、勉強する意味があったとして、それをお前に教えたって、どうせ勉強する気なんて起こらないじゃないか。」

 

さらに「面倒くさいだけのくせに、色々と言い訳して責任逃れしようとしてるんだろ?お前のその言い訳を考える能力は褒めてやるよ。でも、そんなこといったって逃げられない世界はある。そもそも、なんで泣いているんだよ?その意味が分からない。自分でも悪い事をしたって分かっているから泣いているんだろ。」

 

こういったやり取りを通じて、子どもは社会の中での相対的な立場を理解することができ、自分の力の限界を体感することができます。

 

ここで、もし、子どもの言っていることに理解を示したらどうなるか?

 

「どうやったら勉強のやる気が出るの?」とか「じゃあ、一度勉強から離れてみる?」などと言って、ますます子どもを勉強から遠ざけることになり、子どもの本当の意図を捉えきれなくなってしまいます。

 

子ども意図?それはなんでしょう。この話には、ひとつのおちがあります。それは、これだけコテンパンに言われているのにも関わらず、この生徒は清々しい顔をしているのです。

 

なぜでしょうか。これは勝手な推測になってしまいますが、子どもは生身の人間とぶつかりたいのです。生身の人間とぶつかって、自分という存在を確かめたい。しかし、本気でぶつかってくる大人はいなくなってしまったと。

 

変に理解を示すと、子ども達は生身の人間とぶつかりたいという欲求を満たすことができず、ますます逸脱行動を繰り返すようになります。

 

説教が終わり、帰り際に「おい、お前はしょうもない奴だから、これから授業終わったら、毎回俺のところに来い。色々と話しあうぞ」とその子に言うと、とっても嬉しそうな顔をして「わかりましたよ~」と言って帰って行きました。

 

今、大人に求められているのは、子どもに理解を示すのではなく、壁として立ちはだかることなのかもしれません。

 

 

 

躾の方が、言語能力より大事

以前の記事でも書いたことですが、子どもの学力に影響を与える能力は言語能力と躾能力だそうです。この言語能力と躾能力は後天的に強化できるものですが、3歳になるまでにその能力を最も強化しやすいので、基本的には、3歳になるまでに優れた言語環境と卓越した躾を提供できるかどうかということが勝負になってきます。

 

ちなみに言語環境とは、親が子どもに語りかける量、また語りかける言葉の語彙量及び抽象度のことを指し、躾は姿勢や礼儀、生活習慣を授ける力のことだと考えて下さい。

 

最近のこどもたちは、この2つの能力の内、躾能力が極端に少ないように思います。言語能力が優れた子ども(=頭の良い子)はいますが、躾の行き届いた子どもはいません。

 

躾とは美しい身体(しんたい)のことです。それは、美しい姿勢や礼儀、生活習慣の中でしか育まれないもので、これがないと身体的な理由で集中力を保つことができなくなります。したがって、「やらなければならないこと」を身体的な不備(躾の不備)によって「やりずらくなってしまい」結果として「やらなければならないことをやらない人」となり、精神的な忍耐力はますます失われていくネガティブなサイクルに入り込んでいきます。

 

塾で子ども達を観察していると、このサイクルにほとんどの子どもが入り込んでいるように思います。これって、かなり致命的なことだと思います。なぜなら、仮に、言語能力の低い子(=頭が悪い子)であったとしても、躾能力を保有していれば社会に生きていけるものですし、また、言語能力が高い子(=頭が良い子)でも、躾能力が低ければ必ず壁にぶつかり後々痛い目にあるからです。

 

つまり、言語能力よりも躾能力の方が大事なはずなのに、その部分がサクッと抜け落ちている、という危険。

 

「いやいや、躾なんかより言語能力の方が大事でしょ」という意見が聞こえてきそうです。確かに、言語能力は大事です。しかし、頭の良くない躾能力の高い子が、その持ち前の力で生まれ変わったかのように頭が良くなる(言語能力を改善)している例を幾度もみています。だから、やっぱり躾能力が大事なんだと思います。

 

てなことで、個人的には、これから親になる人々に、子どもたちに躾を授ける大事さを伝えていくことがとても大事だと思います。どうすればいいでしょうか。

 

 

 

塾は素晴らしい

塾というものは本当に素晴らしい事業であると思います。でも、その素晴らしさを簡単に忘れてしまう嫌いがあります。なので、今回はそのことを忘れぬために書きます。

 

元々会社員だった私たちは、いつもお客に頭を下げていました。「すいません」が口癖になったほど。モノを売って、お客に喜ばれることもなく。論理的な説明で買わざるを得ない状況にさせ、無理やりモノを売っていた感じです。褒められる機会といえばコンテストの時だけ。その部署で一番の売上高を上げると、部の取り決めとして褒めてもらえる。上司もおめでとう!と言ってくれますが、それは売上を上げたから感謝されているわけであって、何かそこに手触り感のある感謝の念を感じることはできませんでした。

 

それと比べると、塾では頭を下げることもありません。もちろん、塾だって間違っていると感じたならば潔く「ごめんなさい」と言わなければなりませんが、営業マンのように変にヘコヘコする必要はありません。生徒から感謝の言葉ももらえます。志望校に合格した時の喜びは格別です。保護者からもらう感謝の言葉は本当に最高です。どれも手触り感の感謝であると思います。

 

しかし、そんな素晴らしい塾という事業であっても、経営のことばかりを考えてしまって、いつしか一体何のために塾をやっているのかということを忘れてしまうことがよくあります。

 

そもそも、このブログも塾経営におけるTIPSのようなものを公開するために始めたブログです。しかし、TIPS系のブログを書いていると、やはり、「ん~」と感じてしまうことは多々あります。それは、やはり「一体何のために塾をやっているのか」という問いから私たちを遠ざけるエンジンのように働いているからだろうと思います。

 

もちろん、これまでの経験から言って、ここに書いてきたTIPSのようなことを実践することは、塾を運営する立場である以上とても大事です。そして、私たちは、このTIPS=経営・マーケティング的な観点の奴隷でもある。というか、この社会は、この力の奴隷だと思います。経営・マーケティング的観点を持たなければ、事業は死ぬだけです。理想だけを語っていては、ビジネスは成り立ちようがありません。

 

それでも私たちはこの力の奴隷であることを認識しつつも、手触り感のある、あの人間性を取り戻したいと望みます。結局、それは無駄な闘いだろうと思いますが、そこを忘れてしまっては塾を経営する意味はなくなります。こういった手触り感のある大義を持つからこそ、人間性のない経営手段に踏み切ることができると思います。結局、経営というのものは残酷にも人間性のない一定の力学に従うわけですが、それでもなお、人間が経営する理由は、ここにあるのではないでしょうか。だからこそ、塾という事業体の大義について考えなければならないのだと思います。

 

こうして私たちは、再度、塾という事業の素晴らしさを再確認できることでしょう。

個人塾の存在意義 カウンターカルチャー

たまには教育というか塾というか個人塾という事業体が社会においてどんな役割を担うべきなのかということを理論的に考えてみようかなと思います。抽象的な話が嫌いな方はごめんなさい。

 

まず、塾の社会的役割を考えるとっかかりにしたい理論はプルデューの「社会における階級的格差の構造は教育が再生産している」というものです。その考えを要約すれば下記のようになります。

 


プルデューの問題意識を単純化すれば「なぜ平等な教育機会が保証されているのにも関わらず、大学以上の教育機関への進学者において、中産階級の子どもたちと労働者階級の子どもたちとの間に明らかな階級間格差が生じるのだろうか」というものです。

 

日本では苅谷剛彦氏の「学力と階層」でも同じような問題意識を持たれていますが、いずれも、その原因を「文化資本の格差」であると指摘しています。「文化資本」とは、文化レベルのことだと考えて下さい。簡単に言えば、両親の語彙力の高さや、家にある書籍の量、藝術との繋がり、躾に対する態度などと思って下さい。これらの文化資本の中でも、プルデューは言語資本、苅谷氏は躾資本(=たったいま勝手に造語しました)に注目しています。

 

では文化資本とは何でしょうか。プルデューが注目する言語資本と苅谷氏が注目する躾資本について説明します。言語資本とは、その能力が高ければ高いほど、言語は抽象的・形式主義的・レトリック的表現を多用するわけですが、言語資本が低いと言語は個別特殊的・具体直接的な表現を多用するとのことです。躾資本が高いと、子どもへの躾が行き届きますから生活体系は規則正しくなりますが、低ければ怠惰な生活体系となります。

 

そして、労働者階級の子どもは、この言語資本や躾資本が低い場合が多いのです。(ちなみに、プルデューはフランス人なので「労働者階級」と表現していますが、現代の日本にプルデューが言う意味での「労働者階級」を当てはめて考えるならば、それは、親が高卒であったり、シングルマザーであったり、要は所得の低い、もしくは親の学歴レベルの低い家庭のことだと考えれば結構です。)

 

ところが、学校文化では、「基本的に生徒達は言語資本が高く、躾資本が高いこと」を前提としたカリキュラムが組まれています。あるいは、「生徒達は言語資本が高く、躾資本が高くあるべき」という理想を持っています。

 

すると、このような理想とプログラムを内包する教育システムにおいて労働者階級出身の子ども達は、そういった資本を保有していないが故に、教育システムに戸惑いを覚え、中産階級の子どもたちと比べ理解力において差が出るのだと、プルデューも苅谷氏も指摘しています。

 

外見的には中立的で民主的な教育システムですが、実際は、初めから中産階級優位の環境での選別が起こり、しかも、それが社会的に正当化されるとも指摘しています。もちろん、言語資本や躾資本を身につけるのは後天的なことでありますが、それらの必要性を明確に認識している特定の階級内で繰り返し再生産され、その結果として、階級構造が固定化していくと指摘しています。

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この理論を正しいものとするならば、塾は基本的に階級構造の再生産の方棒を担いでいます。なぜなら、塾とは、学校よりも言語資本や躾資本の有無によって生徒の選別を行うからです。

 

ところで、この理論展開には、ある価値観が含まれているように思います。それは「階級格差は悪いことだ」ということです。言いかえると、教育(=学校や塾)が「階級構造の再生産に寄与しているのであるならば、教育の在り方を変えなければならない」という問題意識が見え隠れするのです。もちろん、苅谷氏もプルデュー氏も、そういったことは言っていません。しかし、この社会的事実に対する洞察を手にした場合、私たちは逆に「階級構造は悪いものだ」と考えてしまうことでしょう。

 

しかし、階級構造が本当に悪いものなのでしょうか。いや、確かに階級構造は悪いには悪いのだと一般的には考えられます。ただ、階級構造を悪いと考える背景には、「中産階級は労働者階級よりも幸せだ」とする思想がなければ成立しない考えのはずです。ということは、苅谷氏やプルデュー氏にも、そもそも階級構造的価値観、しかもそれは中産階級の方が幸せだよね、といった価値観があるはずです。

 

そこで、次の理論的視座が登場します。それはウィリスの理論です。要約します。


ウィリスの問題意識は「労働者階級に育った若者が自分の親と同じ労働者階級の職業に就くことが極めて多い点に着目し、なぜそのような事態に至るのか」というものです。

プルデューや苅谷氏は、労働者階級の子どもたちは文化資本や躾資本が少ないが故に、学業で好成績を収められなかったことを理由に、自分は高給を得たり高い地位についたりすることはないと自ら能力を限定することによって、親と同等の職に就くと考えられてきました。また、学校は知力による選別を行うことで、知力の面で限界を認めることを教え込み、労働者階級の若者は、劣等性を受け入れることで、労働者階級の職業に就くとを指摘されてきました。

しかし、ウィリスはこの指摘を批判します。たとえ、学業に対して劣等感を持っていたとしても、自らが不成功者であると生涯思わずに、いわゆる下積みの仕事をしている多くの人々がいる。そこには学業以外の何かがあると彼は指摘しました。

彼はそこに反学校文化と労働者階級独自の文化を指摘し、若者はそれら文化によって自らの価値観を得、またそれを担っていると指摘しました。そして、肉体労働への男らしさや、優等生の多くが就くホワイトカラーに対して批判的な価値観を持つことになると指摘します。確かに学業不振は1つの原因ですが、労働者階級の人々によって形成された文化の中で育った若者は、望んで労働者階級の職業に就いている者も多いと指摘しました。

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このようにウィリスの理論では階級構造が再生産さること自体に問題意識を持っているわけではありません。むしろ、労働者階級には労働者階級としてのカウンターカルチャーのようなものが存在し、そのカルチャーの中で育つ人にとっては、中産階級になることを望んでもいないし、むしろ批判的であるとのことです。

 

私たちは、このウィリスの理論に非常な共感を持ちます。というのも、個人塾には、いわゆる労働者階級的な子ども達が集まるからです。そして、彼らは彼らなりに、きっと強く生きていくのです。このときに、私たちは個人塾として、どんな態度を取らなければならないのでしょうか。

 

これを考えるために、まず大手塾について考えてみます。おそらく、大手塾は中産階級への憧れを磁力にして顧客を集めるシステムです。だからこそ、大手塾は中産階級っぽさを演出します。そして、大手塾に来る生徒達には、中産階級に入ることが幸せなんだということを色々な角度から知らしめて、かつ、「受験を上手く乗り切ることが、中産階級になるための一歩なんだ」と教え込むことでしょう。

 

では、個人塾の意義とは、なんでしょうか。もちろん、大手塾からマネをしなければならないことはたくさんあります。なんだかんだ商売ですから。しかし、マインドは、カウンターカルチャーじゃなきゃいけないような気がします。そうであってこそ、個人塾は個人塾としての役割を果たすわけです。つまり、労働者階級の子ども達に、中産階級に入り込むための勉強だけを教えるのはなく、むしろ反骨精神を育て、人間として真っ当であることの大切さを伝える。肉体労働でいいじゃないかと。つまらぬルーチンワークでもいいじゃないかと。人としての生き様は、ブルーかホワイトかなんかで決まるもんじゃねぇと。

 

逆説的なのは、いずれそんなカウンターカルチャーも、いつかメジャーに飲みこまれるということです。これは世の道理です。Jazzをはじめ、数多くの黒人音楽がいつしかメジャーへと昇格し、いつしか当時の魂は失われてしまうのです。

 

しかし、それでもいいのではないかと思います。今でも1960年代のJazzの情熱や反骨精神に適うJazzはありません。ただ、1960年代に確かに存在したその反骨精神に、人々は違った形で影響を受けるものです。

 

個人塾としての意義。それはカウンターカルチャーにあると言いたいです。私たちは、単なる商売ではなく、文化を担っていると考えてみるのもよろしいのではないでしょうか。

 

 

 

タブレットを使った教育・授業は課題だらけです

タブレットを使った授業が流行りのようですね。「2020年までにすべての学校で一人一台タブレットを導入したIT授業を実現する」だそうですが、それがどういった意味で学校教育にプラスの影響を及ぼすのでしょうか。私の個人的な意見としては、ほとんど意味がないと思います。

 

そもそも論として

まず、タブレットで授業を行う体制を整える前に、子ども達にタブレット上で動くプログラムの書き方を教える方が先決だと思います。

 

タブレットやスマートフォンは、学校で導入せずとも子ども達はドンドン使いこなしていくでしょうし、自ら学習アプリをダウンロードしてガンガン使っていくでしょう。

 

だから授業でタブレットを使おうが使わなかろうが、時代は子ども達の行動パターンを勝手にICT的にさせるのです。現に、私たちの塾にいる中学生の8割は、スマホ(iPodtouch等も含む)を所有していて、LINEをベースとして様々なコミュニケーションをとっています。今の子ども達は、数年前まで存在しなかったコミュニケーションプラットフォーム上で友達関係や恋愛関係が進行させ発展させているのです。

 

つまり、今の中学生(小学生高学年も含む)は、誰かが作ったプラットフォーム上で学び・遊ぶ能力に熟達しているのだから、ICTとして教育的に意味あるものがあるとすれば、誰か作ったのものではなく自分で作ったアルゴリズム(アプリケーション)で学び・遊ぶ能力を育むことが大事ではないかと思います。これこそICT社会において付加価値の高い能力ではないかと思います。しかし、こういった能力は、タブレット授業で育まれる能力ではありませんし、似て非なるものです。

 

しかも、タブレットを活用した授業は課題だらけ

また、授業を行っている立場の人間からすると、タブレットは、生徒にとっても先生にとってもユーザビリティが低すぎます。

 

例えば、数学の丸つけ。単純な計算問題ならまだしも、少し複雑な文章題ならば、「解答と解説」と「自分の答案」を見比べながら丸つけをしたいはずです。しかし、ひとつのタブレットでは、そういったことはできません。できるとしたら、解答用タブレットをもう1台持つくらいでしょうか。

 

複雑な計算問題ならば、計算式を書いて答えを導くわけですが、その計算式はどこに書くのでしょうか。ノートを別に用意して、そこに計算式を書いて、その結果をタブレットに書くなんて最悪です。タブレット上に計算式を書くよりも紙に書く方がまったく楽でしょう。

 

さらに言えば、黒板の内容を、どのように生徒達は記録するのでしょうか。画像にしてタブレット上に保存するのでしょうか。それとも先生が書いた内容が瞬時にタブレットに転写されるようになるのでしょうか。いずれの場合にせよ、こういった仕組みが子ども達の知的能力を伸ばすとは思えません。

 

タブレット授業に関する文句のつけどころは、言いはじめたら切りがないのです。ひとつ言えることは、「現状の授業システム=黒板と教科書、ノート、鉛筆によって成り立っている授業システム」は、かなり柔軟性のあるシステムであるということです。柔軟性のあるシステムとは先生の力量や生徒の力量によって、いかようにでも授業を再設計することができるということです。しかし、ここにタブレットを導入してしまうと、せっかくの柔軟性はなくなってしまい、画一的授業となります。

 

もちろん、この話は、授業内容がこれまでの学校教育と変わらないことを前提として、タブレットだけがポコッと導入されることを想定しています。

 

よくネット上で上がっている「タブレットを使った授業は素晴らしい」的な記事は、「そんな授業は毎日できないだろうし、そんなんじゃ子どもの基礎学力は身に着かないよ」といったものが多いです


例1:http://news.mynavi.jp/articles/2011/06/13/acer/
例2:http://news.mynavi.jp/articles/2012/06/20/tablet_school/


 

だから、教える内容・目的によってはタブレットを活用した方が良い場合もあることは否定しません。が、逆に言うと、タブレットを導入するのなら、教える内容・目的を変化させなければダメだということです。そして、その場合に、本当に子ども達の基礎学力の向上に寄与するのだろうかということを改めて考えてみる必要があると思います。

 

基礎学力がなければ、ITリテラシーを高めることさえできないのですからね。

 

個別指導というシステムについて

今回は、最近流行の個別指導について考えてみたいと思います。

 

個別指導とは、現状に即した定義で考えると、先生1人に生徒1人~3人で行われる授業形態をメインとしている塾を指すことになります。明光義塾や個別指導学院、森塾などが、その最たる例で、先生1人対して生徒2人~3人で授業を行っています。

 

教室の形態は下記のような感じです。個別ブースが設置され、講師が生徒のあいだに入って色々と教えています。

 

これが個別指導の姿です。

 

個別指導の収益性

塾の収益性とは、先生一人あたりコストに対する売上高によって決まってきます。単純化すると、先生一人が抱えることのできる生徒数を増やせば、塾の収益性は改善されるということです。

 

ですから、集団授業型の塾と比較して、先生一人当たりの生徒数が少ない個別指導の収益性は確実に低くなります。収益性が悪い以上、生徒一人当たりの授業料を高くするか、もしくは講師の費用を下げるしかありません。

 

ただし、授業料が高過ぎても生徒は集まりません。だから、集団授業型の塾よりも若干高い価格にするのが目一杯のところ。しかし、月謝を少し高くする程度では、収益性の根本的な改善は望めません。

 

そこで、人件費の圧縮です。その方法は、まずアルバイト講師を雇います。そして、アルバイト講師には「時給ではなく授業のコマ単位で給料を支払う契約」をします。こうすることで、「1コマあたりの経費として人件費が計上される」ので、赤字になるリスクを避けることができます。このような方法で、個別指導は人件費を圧縮させ、収益を確保しています。ですが、集団指導型の塾と比較すると、収益性が低いことは間違いありません。

 

個別指導というビジネスモデルの妙

集団授業よりも収益性の低い個別指導が、なぜ流行っているのでしょうか。そこには、個別指導にしかしないビジネスモデルの妙があります。それは以下の2点に集約されます。

①生徒を個別ブースに押し込むことで、指導力のない講師でもOK

②一方で、「個別指導」というサービスは、保護者にとって説得力・訴求力がある

 

それぞれについて詳しく述べていきます。

 

①    生徒を個別ブースに押し込むことで、指導力のない講師でもOK

集団授業において最も必要とされるのは講師の指導力です。指導力のない先生ならばクラス運営は破滅し、生徒はすぐにいなくなってしまいます。そういった意味で、集団授業型の塾では、指導力のある先生を揃えることが塾経営に置いて最も重要な要素となります。ですが、こういった人材の確保は非常に難しく、そう簡単に見つけられるものではありません。

 

一方で、個別指導ならば、個別ブースに生徒を押し込むことで、生徒をほぼ監禁状態にさせますから講師の指導力は必要ありません。ということは、中学生の勉強内容をそこそこ理解している大学生であれば、ほぼ誰でも講師となれます。よって、難なく人材を確保することができます。また、仕事内容が集団授業型の塾講師と比べて随分と楽ですから、給与は集団授業型の講師アルバイトと比べ半分程度で済ますことができます。

 

これが何を意味するのでしょうか。それは、教室長は、そこそこの大学生を雇って、個別指導のシステムに組み込んでしまえば、それである程度ビジネスにできるということです。FC展開にとても有利ですね。

 

②    一方で、「個別指導」というサービスは、保護者にとって説得力・訴求力がある

これまで述べてきたとおりですから、個別指導には指導力という点で期待できるものはありません。また、生徒は孤立していますので、学校や集団塾のような競争意識を芽生えさせる機会もありません。よって、個別指導で生徒の成績が上がることは原則ありません。

 

それにも関わらず、個別指導は保護者の方々に高い訴求力を持っています。なぜなら、ほぼ1対1の状況で教えてもらうことほど親にとって安心できることはないからです。

 

また仮に生徒の成績が上がらなかったとしても、1対1で教えてもらっているという事実を盾に、保護者はクレームをつけにくい状況になります。

 

このように保護者への高い訴求力と、クレームのつけにくさから、たとえ個別指導の内容が空っぽだとしても、ビジネスは回っていきます。ますますFC展開に適していることが明らかになりました。

 

結局、個別指導って

ということで、個別指導は教育的観点から考えれば、かなり問題あるだろうと考えざるを得ない代物です。

一方で、そのビジネスモデルは、FC展開と非常に相性が良く、一気に広まっていくことになりました。

収益性は良くないですが、誰にでも始めることができ、かつ顧客への訴求力がある。マーケティングさえ上手くいけば、あなたもビジネスオーナーとしてお金持ちになれる!こうしてFC会員を増やしていったのでしょう。

個別指導は、塾というビジネスを突き詰めた結果生まれたニュータイプです。

 

 

 

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